HOME > 特集記事 > 【2011年6月号】 前向きに歳を重ねた偉人たちの名言
歳を重ねてなお自分の人生を見つめなおし、次々と新境地を開いていった偉人たち。彼らの生き方と名言から、前向きに歳を重ねるヒントを探ります。
単に外見を気にするだけでなく、年齢ごとに訪れる自分の変化と真摯に向き合い、前向きに齢を重ねることができたら素晴らしいと思いませんか?今回の特集は、そんな生き方を実践した古今東西の偉人をご紹介します。彼らが遺した名言にも、その生き方がストレートに表れています。年齢を心地よく重ねていくヒントになりますよ!
外見の変化と真正面から向き合わなくてはならない職業、それが女優です。女優の中には、その変化に耐えられず、早々に引退を決意して銀幕から遠ざかる方もいます。その一方で、歳を重ねる自分を素直に認め、自分の年齢に応じた「役」を、味わい深くこなしていく女優もたくさんいます。
映画『ローマの休日』『ティファニーで朝食を』『麗しのサブリナ』などの主演女優で、日本でもいまだに根強い人気を誇るオードリー・ヘップバーンは、60歳になるまで女優業を続けました。そこから、第二の人生が幕を開けます。彼女が選んだのは、人知れず静かな余生を過ごすことではなく、ボランティアに身を投じることでした。
ユニセフ親善大使として、スーダンやソマリアなどアフリカ諸国を巡るオードリー。痩せ細ったアフリカの子供たちを、優しい笑顔で抱擁する姿が世界に発信されました。ご存じの方も多いと思いますが、当然ながら『ローマの休日』に出ていた初々しいオードリーではなく、深いしわが刻まれた表情がありました。しかし、その表情はなんとも魅力的で、気高さを感じるものでした。親善大使時代の会見では、彼女自ら「確かにしわが増えましたが、これは私が多くの愛を知った証。今の顔がいちばん好きです」と堂々と言い放ったそうです。
彼女がボランティア活動に身を投じた理由は、自身もまたボランティアに救われた経験があったから。オードリーが生まれたのは1929年。第二次世界大戦のさなか、ドイツ占領下のオランダで暮らしていました。反ドイツとして活動していた彼女は、当然ながら過酷な運命に晒されます。親族や仲間が強制収容所送りになり、彼女自身も栄養失調に陥って生死の境をさまよいました。まさにアンネ・フランクさながらの暮らしを送っていたのです。そんな彼女が感銘を受けたのは、ボランティア機関から送られてきた救援物資でした。いつか、自分も送る側になって恩返ししたい、という想いが芽生えたといいます。
今回ご紹介した名言は、アメリカの作家、サム・レヴェンソンが書いた詩の一節です。オードリーはこの詩をこよなく愛し、自分の子どもたちにも読み聞かせていたといいます。この一節以外にも「魅力的な唇になりたいなら、優しい言葉を発しましょう」「愛らしい瞳になりたいのなら、他人の美点を探しましょう」など、他者へ注ぐ愛が自分を美しくする、ということが述べられています。彼女の第二の人生は、まさにそのことを体現したものといえるでしょう。
天海という人物は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した天台宗の僧侶です。11歳で出家して、比叡山延暦寺や興福寺などで学問を体得。日本の古典や養生(健康法)についても深い造詣を身につけていたといいます。
その知識の深さは広く知れ渡り、かの武田信玄に招かれて説法を施したり、比叡山焼き討ちの際には、逃れてくる僧侶たちを自らが居としていた甲斐の国に喜んで迎え入れたとの説も残っています。
そして最も有名なのが、徳川幕府が基盤を築くうえで欠かせないブレーンであったこと。家康は、比叡山で生じた確執の調停役に天海を指名。これを天海が丸く収めたことから信頼関係が深まり、政治や風水に至るまで様々な講義を受けていたそうです。「天海僧正は、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」と賛辞を送ったともいわれています。「もっと早く会いたかった!」ということですね。この時、家康は68歳。天海は75歳でした。
家康が長寿だったことはよく知られていますが、輪をかけて長寿だったといわれているのが天海。なんと、108歳で亡くなったという説が有力のようです。そんな天海の遺訓のひとつが今回の名言です。せかせかせずに気を長く持ち、しっかりと真面目に勤めること。「色うすく」は、好色になりすぎるな、ということですね。そして、食は細めで心を広く持て、ということです。
ちなみに「長命は、粗食、正直、日湯(ひゆ)、陀羅尼(だらに)。時折ご下風(げふう)あそばさるべし」という歌も詠まれました。日湯は毎日の入浴のことで、陀羅尼はお経の一種。「ご下風〜」は、おならを我慢しないように、という意味です。おならを我慢しないことは健康面でも確かなことですが、「あそばさる」という敬語とのギャップをつけた天海特有のユーモアといえるかもしれません。
男性の中には、「開高健のように生きたいなぁ」と思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。昭和を代表する小説家にして、釣りや旅、グルメなど旺盛な好奇心で追い求め、世界中を駆け巡った開高健氏。氏がことあるごとに口にして、テレビ番組のタイトルにもなったことのある「悠々として急げ」という言葉、いろいろな解釈ができる、実に味わい深い名言ですよね。
この言葉は、ラテン語の格言「Festina lente」がもとになっています。「Festina」は「急げ」、「lente」は「ゆっくりと」を意味しますので、直訳すれば「ゆっくり急げ」ですが、これを「悠々として急げ」と訳した氏の言語センスに舌を巻きます。
学生時代から同人活動を通して執筆していた開高氏ですが、壽屋(現在のサントリー)の広報としても名を馳せ、数々の名キャッチコピーを残しました。ウィスキーのキャッチコピー「人間らしくやりたいナ」は、商品そのものではなく「飲む」行為や雰囲気をも表現したコピーとしてセンセーショナルな注目を集めました。
小説『裸の王様』で芥川賞を獲ったことを機に退職し、その後は執筆活動に専念。戦時下のベトナムに行き、凄まじいまでの衝撃を受けて、ルポルタージュ『ベトナム戦記』や小説『輝ける闇』などを執筆しました。
しかしその後、「書けない時期」に突入します。なぜ書けなくなったか、それは本人のみぞ知ることではありますが、やはりベトナム戦争の衝撃はなみなみならぬものがあったはず。一日中、書斎にこもって執筆を続ける苦悩もあったことでしょう。
そんな時に舞い込んできたのが、釣り紀行の雑誌連載の仕事。部屋にこもる生活から一転して、大自然の中で魚と格闘することによって、新たな生命力と感動を自身の中に体感したのでしょう。「これだ、これがほしかったのだ」と後にしたためています。以降、ブラジルのアマゾン川をはじめ、アラスカ、カナダ、モンゴル、フランスなど、世界をぐるりと回って釣りに没頭し、その生々しい感動を『オーパ!』『フィッシュ・オン』といった釣り紀行にしたためました。これら著書を読むと、釣り人はもちろん、釣りをしない人にも感動と躍動感が伝わると思います。
サラリーマン時代も釣行に魅せられた時代も、まさに「悠々として急いだ」人生だったのではないでしょうか。この矛盾をはらんだ名言には、自分の身の丈で物事に取り組み、人生を楽しみながら充実した日々を送るように、というメッセージも込められているのかもしれません。
オードリー・ヘップバーンは華やかな舞台を降りてから第二の人生を生きぬき、天海は自分を律することを忘れずに長寿をまっとうしました。開高氏は、自分の魂を揺さぶるものと出会い、精気に満ち溢れた人生を送りました。中国の古い医学書「黄帝内経(こうていだいけい)」は、女は7の倍数、男は8の倍数で体に変化が訪れると説いています(詳しくは先月号の特集をご覧ください)。みなさんもぜひ、自分の心と体の変化に向き合い、充実した人生を送ってくださいね。
女は7の倍数、男は8の倍数
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