HOME > 健康の雑学 > 【2005年10月号】日本のごはん文化と江戸煩い(わずらい)



日本のごはん文化と江戸煩い(わずらい)


最近はスーパーマーケットやお米屋さんでも、白米以外の穀物をよく目にします。

玄米や麦、粟(アワ)などの栄養価の高さが注目されていますが、長い間、日本には「白米至上主義」ともいうべき考え方が根付いていました。

それは江戸時代にまで遡ります。

今回のテーマはズバリ「ご飯」。日本人、とりわけ江戸時代の人々がご飯に対してどんなイメージを持ち、食してきたのか。雑学を交えてご紹介します。



お江戸の食卓はビタミンB1不足!



長い間、日本の庶民の「ご飯」は玄米が中心で、白米は身分の高い人しか食べられませんでした。


状況が変わったのは江戸時代。流通システムの発展によって、江戸の庶民の食卓に白米が現れ始めました。「江戸には仕事もあって、なにより白米が食える!」として、地方から人が集まりはじめます。江戸の人口増加の最たる理由は白米、とまで言い切る学者筋もいるほどです。ちなみに「一日三食」の習慣も、玄米などに比べて消化されやすい(=腹持ちが悪い)白米の普及によって生まれたという説もあります。


しかしここで、奇妙な問題が持ち上がりました。江戸を訪れた地方の侍や大名を中心に、江戸に行くと体調が悪くなる、足元がおぼつかなくなる、怒りっぽくなる、場合によっては寝込んでしまう者が続出。侍たちが故郷へ帰るとケロリと治ったことから「江戸煩い」と呼ばれる病が流行りました。


明治に入って解明されたのですが、この病は「脚気(かっけ)」。つまりビタミンB1欠乏症です。胚芽部分に含まれるビタミンB1をそぎ落としてしまう白米中心の食事が原因でした。江戸を離れると麦や穀物、野菜などを中心とした食生活に戻るため、自然と回復したわけです。ちなみに100g中のビタミンB1含有量は、白米がおよそ0.1gなのに対し、玄米は0.5g、米ぬかに至っては2.5gもあります。


江戸煩いに悩まされた有名人といえば、「生類憐れみの令」で有名な五代目将軍綱吉。従三位だった時代に江戸煩いにかかり、占い師の指示によって練馬に御殿をつくり、転地しました。さらに「素足で土を踏むように」という主治医の指示が出たため、畑を作りました。


生母は尾張から大根の種を取寄せて撒き、畑仕事が珍しかった綱吉は日々畑に出向いたそうです。出来た大根などの新鮮な野菜を食べて回復した綱吉は練馬の地を出ていきましたが、大根畑だけは残りました。それが「練馬大根」のルーツといわれています。


もうひとり、面白い「ごはん」のエピソードを持つ将軍は、三代目将軍家光。幼い頃から偏食で体が弱く、食欲不振に陥りやすい家光のために、献立を考えた人がいました。それが乳母の春日局です。白米ではなく、菜飯、湯取(水気多めで炊いたのち、水洗いして再び蒸した飯)、茶飯、粟飯、麦飯、小豆飯、引き割り飯(臼でひいた麦をまぜた飯)の7種を混ぜたご飯が食卓に上りました。ビタミンB1だけでなく食物繊維も多く含まれていますので、消化が遅い、つまりゆっくりと時間をかけて栄養が吸収される、理に叶ったご飯だったといえます。これが四代目将軍家綱から4種になり、幕末まで続いたそうです。


このように穀物のパワーは、今になって発見されたわけではなく、古くから注目されていたんですね。ぜひ皆さんも江戸時代の教訓を活かし、穀物をバランス良くとるようにしてみてください。